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金井はやし連

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 神社のお囃子は源頼朝が征夷大将軍に任ぜられた際に、鶴ヶ岡八幡宮の社前で盛大な祭祀が行われた時、笛太鼓の達人五人が囃子を奉納したのが始まりであるといわれています。

 お囃子は神様を迎え、もてなし、送り出す、儀礼音楽として演奏されたものであり、はやす(周囲から褒めそやし、引き立て栄えるようにするという意味)や殖やす、などに通ずると考えられます。

 金井の祭り囃子の由来は定かではありませんが、古老の話によれば、山の手流神田囃子の流れを汲むもので、明治初期に氏子の二人が笛とおかめ踊りを習得し、金井を中心に鶴川地区や近隣に広めていったとされ、金井八幡神社の氏子はやし連によって、代々継承されています。

 神田囃子の起源については、江戸時代の享保年間(1716-1736)武州葛西郡金町村の香取大明神(現在の葛飾神社)の神主「能勢 環(のせたまき)」が当時神社にあった里神楽と和歌の浦囃子とを手直しして「和歌囃子」なるものを作り土地の若者たちに教え、近郷の祭りに参加させ演奏させたが起源とされいます。当時の代官が若者の不良防止につながると思い、支配下町村の若者たちに「和歌囃子」を学ばせ優秀な団体を将軍上覧の神田祭に出演させました。それが刺激となって葛西囃子の奏法と曲が神田囃子を生み、それが江戸近郊の各町村に普及したと言われています。

 葛西囃子が神田に伝えられて独自に工夫され神田流となり(素人の囃子方の取締役の長谷川金太郎の時期に確立したとされる)、幕末には多くの人達によって受け継がれた。特に弘化2年(1845)生まれの上板橋の住人、石田滝蔵は明治初期に多摩地区への普及に勤めたと言われています。

 お囃子の多くは口承伝承であり、地言(楽譜)によって表記されますが、現代のような楽譜ではなくて、むしろ雅楽の譜面や琴の譜面に近いようなカタカナの言葉で表されています。これはまず地唄を覚え、それを覚えた上で、笛や大鼓に置き換えて、演奏するというものです。吹き切りと言って、音きり(ブレス)の位置、めらしといって音の高低を変える部分などが、地唄でマスターされます。

 金井のお囃子も氏子の世襲や師弟の指導により、笛・太鼓・踊りの後継者の育成を図っております。現在も金井八幡神社の例大祭や初詣を始め、近隣の祭礼やイベントに招かれて出演しています。

 

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