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金井八幡神社の由来

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 金井八幡神社は、旧金井村の鎮守として、古くからこの地域の人々の信仰を集めて来ました。現在も金井地区の唯一の氏神として、また金井の文化史跡の一つとして継承されています。

 

 八幡神は元々、宇佐地方一円にいた大神氏の氏神ヤハタ神であったと考えられます。ヤハタ神は農耕神あるいは海の神とされますが、鍛冶の神という説もあります。

当社の祭神は応神天皇(おうじんてんのう)です。

 

別称:誉田別命(ほんだわけのみこと)、

八幡神(やはたのかみ、はちまんしん)

 

系譜:第十五代天皇(第十四代天皇仲哀天皇と神功皇后の子)

神格:武神、文教の祖神

神徳:国家鎮護、家運隆昌、成功勝利、交通安全、悪病災難除け、縁結び、子宝安産、子育て守護

 八幡神社の総本社は大分の宇佐神宮。早くから仏教と習合しており、天応元年(781年)には仏教保護の神として八幡大菩薩の神号が与えられました。これにより、全国の寺の守護神として八幡神が勧請されるようになり、八幡神社が全国に広まったと言われます。建久3年(1192)源頼朝が鎌倉幕府を開くと、八幡神を鎌倉へ迎えて鶴岡八幡宮とし、御家人たちも武家の主護神として自分の領内に勧請し、それ以降も、武神として多くの武将が崇敬しました。

 

新編武蔵風土記稿(江戸時代後期幕府により編纂)には、「八幡社、字木倉谷戸にあり、勧請の年代を知らず。村の総鎮守なり、社上に覆屋を設く、大きさ二間半四方にて東向きなり、ご神体は長さ五寸ばかり。社前に鳥居立つ、例祭7月28日、獅子舞を執行す、弘福寺の持ち」とあります。

 皇国地誌(明治12年頃編纂)には、「金井八幡社祭神応神天皇勧請年月詳ならず例祭八月二十八日社地中老松三株あり、四百有余年のものなり」とあり、室町時代初期には存在していたと思われます。

 

 神体は白馬に跨る応神天皇で、享保11年(1726年)仏師佐野木丞の作。本殿厨子は文政11年(1828年)仏師田村幸左衛門の作。また古獅子頭3体も社宝として伝わっています。

 

 現在の参道の石段は、寛延4年(1751年)に講中の普請で完成されました。現社殿、神楽殿は境内の老松を使って昭和16年に再建されました。昭和47年に「八幡神社氏子崇敬会」が発足し、地域の方々と共に鎮守の森の維持、発展に努めております。

応神天皇像(集古十種より)

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